全文公開:高橋若木『収容所なき社会と移民・難民の主体性』
『抗路』にエッセイが掲載されました
試し読み:<小説>二〇一三年 櫻井信栄
※この作品にはヘイトスピーチ(差別扇動表現)が含まれます。
店の二階の窓から大通りを見ていた。日曜の朝にこの道を歩く人は少なく、歌舞伎町のほうから出てくる人の姿が見える程度だった。向かいのスーパーの店先に菜の花の葉が積まれていて懐かしい緑が目にしみた。子供のころ家の近くに市場と古書店通りがあって、母に連れられよく出かけていった。両手に重い荷物をさげて信号を待っていると、坂を下りた先にある海がちらちらと光る。港から汽笛が響き、春にはたくさんの桜が咲きほこるあの街。
ほうきで床を掃いて、コードレス掃除機で隅々まで埃を吸い取る。モップもかけた後に椅子をテーブルからおろす。癇性だと言われるが、女子高校の寄宿舎にいた時は部屋を少しでも汚くしていると先輩に怒られた。今も店が散らかっていたりすると落ち着かない。テーブルを拭き終わって下に降りると、厨房で夫が刻んだ日本の竹輪と玉ねぎを炒め始めていて、ごま油の香りが換気扇のほうに流れていった。冷蔵庫にちりめんじゃこと獅子唐の和え物、白菜のキムチがたくさん入っているから昼のパンチャンはこれで大丈夫だろう。唐辛子味噌も先週母の実家、英陽から届いたばかりだ。
二代続いた釜山西面の焼肉屋を売り、夫と娘と日本へ来て四年目になる。夫が子供の頃から練炭を熾して手伝った店だった。東京で飲食店などを経営していた夫のクナボジが大腸がんで倒れ、夫が経験を買われて玄界灘を渡ることになった。
「食堂でも焼肉屋でもここで出来るのに、日本まで行くのはもったいないわね」
「これが人の生きる世の中さ。外国で入院した人の店を家族以外の誰が助けてくれるっていうんだ」
私よりきつい釜山訛りで夫はそう言って、日本の小学校の情報をインターネットで調べ始めたのだった。店がある新宿区大久保に住むことになり、娘は若松河田の東京韓国学校に入学した。学校周辺には韓国人の子供が通う塾や英語教室が並んでいる。日本語が分からない小さな子を公立学校に入れるのは不安だった。朝と夕方に私が都営バスで送り迎えをした。バスは東京の平和な街を本当にゆっくり走った。釜山では見かけない可愛い軽自動車が広い車道を悠々と進んでいるのを見ると愉快な気分になった。車椅子に乗った人、白い杖を持った人を車窓からよく見かけた。若松河田駅の出口の前で曲がり、東京女子医大へ続く道に大きな桜の樹があった。花の写真を撮るのが好きな娘は休みのたびにあちこちへ出かけていき、ムグンファはよく咲いているがケナリを見かけないと言った。今朝は北新宿の方の公園に行ってくると言って、日本の中古品店で運良く見つけたライカのデジタルカメラを首に下げて出かけていった。
私は花なんてよく分からないけれど春の東京に桜がたくさん咲いて、どの木もきれいに剪定されているのには感心した。花見客が桜の花を持っていかないのも良かった。昔ハルメが桜の枝を折って手に持っている私を見つけて「お前は人の指もちぎって持っていくのかい」と怒ったことがあった。桜が枝を伸ばすのに何年かかったと思っているのか、とも言った。日帝時代の釜山で生まれ育ったハルメだから、ハルメは日本人の言葉を覚えていたのかもしれない。
東京に移り住んでみると、街の清潔さを見て分かるとおり日本人の秩序意識は想像以上のものだった。大地震があった時、私たちはすぐに店を閉めて一週間ほど釜山に行ったのだが、その時も東京の街はパニックに陥ることはなかった。しかし皆が善良で万事に慎重であるのを良いことに、勝手な行動で他人を出し抜く人が得をする社会なのかと感じさせられることもあった。例えば原発マフィアと呼ばれる金の亡者が私たちの国にもいる。
持つ者、持たざる者の両極化は韓国が日本より進行していて、保守政権下では解決されそうもない。報道番組や新聞などが全て与党寄りになってしまったこともそうだが、世の中がすさんできたと私が感じたのは、釜山の地下鉄の駅で「朝鮮族追放」という落書きを見た時だった。娘が大きくなった頃には一体どんな国になっているんだろうと思いながら、私は駅の化粧品店で除光液を買い、落書きを消した。
娘は来年中学校を卒業する。将来は韓国で花屋とカフェと書店をミックスした店を友達と出したいと言っている。どんな店になるのか見当がつかないけれど、娘の夢なのだからもちろん応援するつもりでいる。英語圏の国に留学させたいと思っていたが、やはり最後はあの子が自分で決めることだ。私たちの国にいる子供みたいに勉強ばかりして大人になるのが人生ではないと思う。韓国の子供たちが画一的だというわけではないのだけれど……。娘には、自分にはこんなことができる、あんなこともできるという可能性をたくさん発見してもらいたい。
ランチタイムの看板を外に置いた。近くのK−POPショップから音楽番組の甲高い声が聞こえた。看板が曇っている気がして、外で使う雑巾で表面をぬぐった。週末になると決まってあの人たちが来る。
*
たいくつだなあ。はやく出発すりゃいいのにいつまでならんでんだろ。公園にずっといたってしょうがないじゃん。前の人たちがプラカードをあげてるけど、うしろからだと棒に紙をテープではったのが見えるだけで、なに主張してんだかぜんぜんわかんないよ。その点、日の丸や旭日旗は裏からすかしてみても何の旗かすぐわかるからいいよね。ここに日本人がいて、日本が好きだってこと。神社で買ったポールつきの日章旗があったから、それもってきたのは正解だったな。けさ家を出たときあの人はいなかった。お母さんの再婚相手、俺が高校二年の時。俺はいやでたまらなくて何もしたくなくなって学校に行かなくなり、お母さんにジュースを買ってこさせて自分の部屋ん中で飲みながらずっとアニメを見ていた。ハルヒとかけいおんとか俺妹とか何度もくりかえし見てるうちにずいぶん太っちゃったけど。ジュースのペットボトルはあの人も捨ててくれてたらしい。いっしょに住んで何年か経つけど俺あの人をお父さんとか、なになにさんとか言って呼んだことがないんだよね。
プラカードのほかにも長い一脚に固定したビデオカメラが何台もあがってて、その下でネット中継用にノートパソコンを使ってる人もいる。丸いメガネのおじさんはデモの動画をあげてくれる有名人だ。ああいうふうにいつもカメラを使ってるんだな。ワイファイつながるとこに行ったらユーチューブとニコニコ動画を見てみよう。検索ワードは「日韓断交 デモ 新大久保」だ。
(続きは小誌をご覧ください。)
小誌が新聞で紹介されました(東京新聞、沖縄タイムス、しんぶん赤旗、週刊読書人、朝日新聞)
▽編集委員・杉田俊介の『対抗言論』についての記事が「東京新聞 夕刊」(2020年1月23日付)で紹介されました。
▽小誌が「沖縄タイムス」(2020年1月29日付/文化面「焦点/争点」記事)で紹介されました。
▽小誌が「しんぶん赤旗」(2020年2月2日付/読書面「レーダー」記事)で紹介されました。
▽編集委員・櫻井信栄の小説『二〇一三年』(『対抗言論』1号)が「週刊読書人」の文芸時評(2020年2月7日付/評者は荒木優太氏)で紹介されました。
https://dokushojin.com/article.html?i=6613
▽小誌が「朝日新聞 夕刊」(2020年2月18日付/社会・総合面/宮田裕介氏・評)で紹介されました。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14370406.html
スライド:『対抗言論』が目指すもの
イベント「『対抗言論』が目指すもの/韓国の屋台文化 ~鐘路3街を中心に」(2月14日・神保町チェッコリ)で使用したスライドです。