WEB対抗言論アーカイブ

韓国語版『対抗言論』刊行に寄せて―交差的で反資本主義的な対抗運動のために

 『対抗言論』創刊号〜3号のダイジェストを韓国語に翻訳した『日本のヘイト現象と対抗言説―反ヘイトのための交差路』(淑明女子大学校人文学研究所HK+事業団 人文教養叢書3)が出版されました。編集委員の杉田俊介による同書序文の日本語原文を下記に掲載します。

 

韓国語版『対抗言論』刊行に寄せて――交差的で反資本主義的な対抗運動のために

この度、「対抗言論」のセレクションが韓国語に翻訳されたことは、私たちにとって望外の喜びである。まずは何より、編集と翻訳の作業を行ってくれた申河慶氏と金志映氏に心から感謝する。そして本書を手に取ってくれた韓国の読者の皆さんにも心から感謝したい。

「対抗言論」本誌は、一号が二〇一九年一二月、二号が二〇二一年三月、三号が二〇二三年一月に刊行された(法政大学出版局)。また「対抗言論叢書」として、現時点までに、杉田俊介『神と革命の文芸批評』(二〇二二年五月)、川村湊『架橋としての文学 日本・朝鮮文学の交叉路』(二〇二二年八月)、室井光広『エセ物語』(二〇二三年九月)、川口好美『不幸と共存 魂的文芸批評』(二〇二三年一二月)の四冊の単行本が刊行されている(同出版局)。

申河慶氏と金志映氏にお招き頂いて、本誌編集委員の杉田は、二〇二三年二月一一日の韓国日本学会に参加した。またその際、本誌編集委員の櫻井信栄を介して、趙慶喜氏(「対抗言論」三号に原稿を寄稿)から、杉田はインタビュー取材を受けた。その記事は「イルダ」に掲載されている。その後、私は韓氏と、日本の神田神保町にある書店チェッコリで対談イベントも行った(二〇二三年七月二八日)。これらの一連の流れの中で、杉田の著者『男がつらい! 資本主義社会の中の「弱者男性」論』が韓国語に翻訳されることになった。

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本誌「対抗言論」の出発点は、次の問題意識にあった――いかにして複合差別に対抗するか。あるいはまた、右派・保守と左派・リベラルの間の「壁」をいかに架橋するか。差別批判と経済・労働問題をいかに両立させるか。これらの問いがあった(一号「巻頭言」参照)。交差性(インターセクショナリティ)という概念は、その当時はまだ、日本の差別論やフェミニズムの文脈には十分に導入されていなかった。

しかし、第一号刊行からすでに五年ほどの時が流れた。複合差別や交差性という視点は反差別論のデフォルトになった。いや、それだけではない。ある面ではそれらの概念すらも、すでに言論空間や資本主義によって消費され、簒奪されかけているかに見える。実際に、反動的な差別者たちは、それらの概念を都合よく使っている。たとえばネオリベラルフェミニズムやフェモナショナリズムのような形で。

その結果、私たちがグローバルな局面で直面しているのは、政治的な友/敵を分割する友愛のポリティクス(≒ラディカルデモクラシー)ではなく、端的に〈被害者意識のポリティクス〉と呼ぶべきものであるだろう。差別構造や経済階級を消し去って、誰もが被害者意識によるアイデンティティ政治を試みている、というアポリア。マジョリティ男性は、自分たちこそが真の被害者だとしてマイノリティを攻撃する。あるいは、セトラー植民地主義者たちは、過去の被害を絶対化しつつ、現在の自分たちの暴力や加害行為を正当化する(イスラエルによる反ユダヤ差別の名のもとのパレスチナの徹底的破壊、日本の原爆ナショナリズムなどが想起されるだろう)。

私たちはここで被害者意識と「被害それ自体」とを概念的に区別したい。被害者意識とはあくまでも意識の問題であり、現実的構造の非対称性やそれに基づくポジショナリティを消し去ってしまうからである。

この二十年の日本国内の反差別運動(オンライン排外主義へのカウンター、女性たちの#MeToo運動、複合差別や交差性の導入など)の歴史的蓄積を抹殺し、修正するかのように、排外主義的で家父長制的な「私たち日本人」に向けた政治神学的な反動的欲望がますます強まりつつある。たとえば、日本の単一民族的な純粋さが移民や外国人によって浸食されている、という日本版グレートリプレイスメント理論。あるいは、過激なジェンダー教育や選択的男女別姓(別氏)制度によって、日本伝統のイエ制度が破壊されてしまう、という家父長制度的なものの再強化。権力・地位・資産によって守られた人々、あるいはマジョリティの側の人々こそが今や奇妙な被害者意識や絶滅不安を抱えている。

レバノンの保守的なキリスト教の家庭に生れ、オーストラリアに移住した人類学者のガッサン・ハージは、『オルター・ポリティクス――批判的人類学とラディカルな想像力』の中で、以下のような問題を論じる。すなわち、イスラエルのシオニスト、南アフリカの白人、レバノンのキリスト教徒などは、構造的に特権的な強者のポジションにあるにもかかわらず、「包囲されている文明化された文化」という迫害感覚を感じている、と。ハージは、自分たちは野蛮で危険な「敵」に取り巻かれ、脅かされていると感じる状態のことを、想像的で実存的などん詰まり(stuckedness)と名づけている。こうした「どん詰まり」の感覚を内側から超えていくためには、合理的理性による啓蒙や批判だけでは足りない、と彼は論じる。すなわち、情動の政治を組み込んだ批判的ヘイト研究が重要ではないか、と。

グローバルな複合差別の時代における被害者意識のポリティクス。それに共感する人々は、多様性や反差別という理念(それを支える民主的な普遍的正義)を嫌悪して、反動的で権威主義的な統治の力に能動的に――いわば自発的従属として――身を委ねているように見える。そうした流れをトランスナショナルに強化しているものが、クラウド資本に基づく「テクノ封建制」(ヤニス・バルファキス)であり、(加速主義左派のニック・スルネックらが批判する意味での)プラットフォーム資本主義であるのだろう。

メタ、グーグル、ティックトック、アマゾンなどの巨大な資本制企業は、あらゆるデータを収集し、管理し、人々の行動や欲望を先回りしている(リバタリアンマルクス主義者のバルファキスはそれを「クラウド資本」と呼んだ)。超権力層・超富裕層の人々は、アーキテクチャやSNSプラットフォームの設計やアルゴリズムに直接的に介入している。そのため、一般市民の認知や認識そのものに(政治的選択やイデオロギー選択の手前で)「認識的(エピステミック)不平等」が生じてしまう。ジョエル・コトキンは、テクノ封建制とは、中世の聖職者のように影響力をもつ認知エリート的な有識者(clerisy)と経済的な寡頭支配層(oligarchy)が織り成すものである、と論じている(『新しい封建制がやってくる』)。

端的に言おう。今や私たちにとって重要なのは、複合差別的で交差的な反差別論の認識を踏まえつつ、反資本主義の戦線をいかに拡張していくか、という実践的かつ理論的な問いである、と。政治的な被害者意識の罠に陥ることなく、差別と反差別の交差的なねじれ(加害と被害の重層性)に対する理論的認識を保ちながら、<交差的な反資本主義闘争>を実践的に試みていくこと――それはもちろん、決して簡単なことではないはずだ。誰にとっても、である。

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日に日に世界は悪くなる。確かに。

とはいえ、絶望と無力感の底に沈んではならない。私たちはまず、次の歴史的事実を忘れないようにしよう。トマ・ピケティが強調するように(『平等についての小さな歴史』)、一八世紀末以降、人類の平等への長い歩みがあり、不平等は少しずつ改善されてきたのだ。人類は確実に進歩しており、平等への歩みは勝ち取ることの可能なものである。ただし人類の進歩は決して自然に推移したりはしない。平等へ向かう歩みは、社会と世界の不公正に立ち向かう闘争や反乱の結果として勝ち取られたものだった。農民暴動、フランス革命、ハイチの奴隷の反乱など。

ただし、これもピケティが言うように、闘争や叛乱というアクションだけでは足りない。より困難な課題は、闘争と反乱が切り開いた地平に基づいて、日々の政治や制度を具体的にどう作り替えられるか、である。一極集中した権力と資産をいかに民主的に分散させうるのか、ということ。つまり、政治的闘争と制度変革のいずれもが同時的に要請されている。どちらかを絶対視するのは落とし穴である。

現在地を確認しよう。多くの経済学者が認めるように、一九一四年~一九七〇年代のいわゆる「大圧縮(グレートコンプレッション)」の時代にかけて、所得と資産の世界的不平等は減少し「圧縮」されてきた――ただしグローバルノースとグローバルサウスの間の非対称性は基本的に視野の外にあり、その意味で「大圧縮」の時代とは南側にとっては「大圧搾(グレートスクィーズ)」以外ではなかったのだとしても、である(ダリン・マクマホン『<平等>の人類史』、22頁)。

世界的な平等化の潮流は一九七〇年代には緩慢になり、一九八〇年代になって逆転しはじめる。実際に、今では、アメリカ国内の不平等は、第一次世界大戦の前夜以来、経験したことのないレベルに押し戻されてしまった。むろんアメリカに限らない。グローバルノースのほぼすべての国は、例外的な数十年において不平等が「圧縮」されたのち、一九七〇年代末以降になると、資産と所得面での著しい不平等を経験してきたのである。今や世界の資産の半分近くは世界人口のわずか一%によって所有されている。

グローバリゼーションによって国境を越えた流動と移動が進み、先進国の中間・中流層はじわじわと生活が苦しくなり、あるいは没落不安を抱えている。労働所得と金融資産の乖離も進んだ。実際に、所得格差よりもさらに資産格差のほうが深刻化している(ピケティ同書)。バルファキスも、クラウド資本のもとでレントが利潤を超過した、と述べている。こうしたグローバルな資本主義の変化の中では、問題なのは貧困化であって、格差化は(社会全体の生産性を押し上げ、全員が利益を受けるがゆえに)許容されうる、というジョン・ロールズの『正義論』から新自由主義へと継承された二〇世紀後半型のリベラリズムのロジックは、もはや成り立たないように見える。

ブランコ・ミラノヴィッチとクリストフ・ラクナーが示した有名な「エレファント・カーヴ」が示したのは、次の事実である。一九八八年から二〇〇八年の間、世界の不平等を減らしていたのは、急成長を遂げる中国・インド・インドネシア・タイ・ベトナムなどの経済が国民を貧困層から中流階級へと掬い上げていたためだった。他方で、グローバルノースの比較的裕福な労働者たち、あるいは中流の下の階層の所得は、ほぼまったく伸びなかった。グローバリズムが推進した規制緩和や福祉国家解体は、世界全体の平等を押し上げる結果は生み出したが、グローバルノースの中流層や比較的裕福な層にはほとんど恩恵をもたらさなかった。ここに中流層、中流上層の人々の不満や不安がある。そして彼らがポピュリズムや権威主義へと駆り立てられる理由の一端がある。

私たちははっきりと、まずは「敵」を名指すべきである。「敵」とは誰か。近年のグローバリゼーションの中で生まれたわずか1%の超富裕層・超権力層(一般的な9%富裕層とは階級的に全く別物である)こそが「敵」なのだ。私たちが導入すべきなのは、被害者意識のポリティクスではなく、あるいはカール・シュミット的な意味での敵と友の政治でもなく、トランスナショナルな階級的認識に基づく敵対性のポリティクスである。没落不安を抱えた中間層・中流層は、自分たちの攻撃性を社会的弱者層やマイノリティへと差し向けてしまう。しかしそれは敵を間違えた形での排他的な攻撃性であり、排外主義の発露にすぎない。

二〇〇七年から二〇〇八年の金融危機とその余波を受けつつ、二〇一一年に展開されたオキュパイ・ウォールストリート運動は、一九八〇年代以降の超格差化と不平等に対するリアクションだった。ジョゼフ・スティグリッツはそれを「一%の、一%による、一%のための」経済にすぎない、と批判した。そして『世界の99%を貧困にする経済』の中で、アメリカの一%の最富裕層が国の資産の四〇%を所有し、また所得の二五%近くを得ている状況を批判的に分析した。私たちは、この「1%対99%」という反資本主義の理念を、交差的な反差別運動の達成を踏まえながら、あらためて現代的にアップデートしなければならないだろう。

現代的な金融資本主義/プラットフォーム資本主義によって、一方では、超富裕層・超権力層やテック・リバタリアンが形成され、他方では、グローバリゼーションの流れによってライフスタイルの多元化、性の多様化、人種・民族の複雑化や交差化などが進んできた。そうした流れの中で徐々に没落し生活水準が悪化していく中流層は、将来への不安や不遇感や不幸の意識を抱え込んで、その怒りや不満を(上方の超富裕層や超権力層ではなく)社会的弱者層やマイノリティに差し向けてしまうのだった(江原由美子『持続するフェミニズムのために』)。

既存のオールドタイプの政治はもはや自分たちの利益を代表してくれない、という間接民主主義に対する不信感が強まる中で、人々は、民衆と政治が直接的に結び付くかに感じられる――それが錯覚であるとしても、あるいはまさにそれゆえにこそ――ポピュリズムや権威主義を待望するようになる。伝統的な慣習的エートスや近代社会的な法よりも、アルゴリズム的超自我(プラットフォーム的統治性)を内面化=インストールすることが効率的であり、「チート」であるがゆえに合理的であるとされてしまう――だがそれでいいのだろうか。

マーク・フィッシャーの「資本主義リアリズム」論。そしてウェンディ・ブラウンが『新自由主義の廃墟で──真実の終わりと民主主義の未来』で、新自由主義の行き着く場所はニヒリズムであると論じたこと。これらを踏まえて、現在の私たちを取り巻く根本的な無力感と権威主義的統治性への従属を<資本主義ニヒリズム>と呼ぼう。現代の<資本主義ニヒリズム>とは、人間が形成する民主的で市民社会的なコミュニケーション空間そのものへの諦念と憎悪である。

たとえば加速主義右派/テックリバタリアン系の人々は、民主主義や市民社会を嫌悪し、資本と技術の力によってその外部(火星、海洋都市、メタバースなど)へと脱出(exit)することを欲望する。あるいは他方には、資本と情報の速度に疲れ果て、モノ(人間以外の事物)との箱庭的なコミュニケーションの場へ撤退する人々もいる。それは都市エリート層のマインドフルネスやストア哲学への回帰とも共鳴しているかもしれない。さらには、それらすべてをも諦めて、人類の根本的な「愚かさ」を受け入れるしかない、という「愚かさのシニシズム」に身を委ねる文化人すらもいるだろう――しかしその先には、人類の文明と存続そのものに対する冷笑的な諦念、反出生主義的なニルヴァーナへのタナトスが待っているだけではないだろうか。

しかしそれらのニヒリズムの諸形態は、差別と被差別、加害と被害、搾取と支配の交差的重層性というアポリアに耐えられず、また超富裕層・超権力層との敵対性という政治的課題を回避して、資本主義と情報技術の上澄みだけを掬い取って、「選別的なエリートたちが集う小さな箱庭的なコミュニティ」に引きこもろうとする反動的欲望の産物にすぎない。私たちは蔓延するこうした知識人層・文化人層のニヒリズムに対しても対抗し続けるべきだろう。

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では、これからの反差別論はどうするべきなのか?

たとえば、第四波フェミニズムの特徴は――もちろん「第一波」「第二波」「第三波」「第四波」という区分自体が便宜的で戦略的なものにすぎないとしても――一般的に、SNS以降のフェミニズムであること(1)、性・人種・障害・自然・非人間などの交差性を認識の前提にしていること(2)が挙げられる。しかしそれと同時に、やはり、反資本主義的なフェミニズムである(3)、という点を付け加えるべきだろう。むしろ、反資本主義的な理念こそが、性・人種・障害・自然・非人間などに対する差別や排除の現実を交差的に繋ぎ合わせるための鍵になる、と言うべきではないか。

ただし、私たちには次のような危機意識が同時にある――すなわち、資本主義こそが根源的に交差的なのではないか、と。実際に私たちが現在対峙しているのは、前述したように、差別者が被差別者に対して被害性を主張し、加害者の側が被害者の犠牲性を簒奪して、かつそれを資源として積極的に活用する、といういわば<交差的反動>なのである。

たとえばシンジア・アルッザ&ティティ・バタチャーリャ&ナンシー・フレイザー『99%のためのフェミニズム宣言』は、端的に「現代社会における抑圧の究極の基盤は資本主義である」と宣言している。

フレイザーらによれば、私たちにはもはや『共産党宣言』だけでは足りないのである。「現在の私たちも階級同士の対立に加え、国や人種・民族、宗教をめぐる争いに対峙しているが、私たちの世界は彼らが知ることのなかった政治的分断線を内包している。それは、セクシュアリティ、障害、生態系である。また、ジェンダーをめぐる闘争は、マルクスやエンゲルスが想像だにしなかった広がりと激しさを持っている」。「彼らが生きていたのは資本主義が比較的若い時代だったが、私たちは年を重ねた、したたかなシステムに対峙しているのであり、現在の資本主義は懐柔や強制においてはるかに熟達している」。

現代における反資本主義のための理論をさらに練り上げたのが、フレイザーの『資本主義はなぜ私たちを幸せにしないのか』である。資本主義が強いる危機を生きながら、私たちはなお、資本主義を明確に論じるための批判理論を手にしていない。フレイザーはそう述べる。具体的に言えば、私たちは資本主義の分析に、フェミニズム、エコロジー、ポストコロニアリズム、黒人解放思想などの洞察を組み込まねばならない。

フレイザーは、マルクス『資本論』第一巻の原始的/本源的蓄積論を参照しつつ、マルクスが見ていない「背景条件」の問題を論じる。それは<人種/ケア/自然/民主主義>という四つのカテゴリーである。理論的に重要なのは「搾取」と「収奪」の区別である。契約関係と賃金労働を通した「搾取」とは別に、ケアや自然や公共財の「盗み」としての<収奪>がある。両者は絡み合っているが、概念的に区別される。フレイザーは、マルクスの原始的蓄積による階級論を現代的にアップデートし(ルクセンブルグやハーヴェイも参照し)、複合差別の時代にふさわしいものに仕立て上げようとする。現在進行形の複合的な蓄積のメカニズムとして、収奪過程がある。たとえば女性のケア労働や社会的再生産を担う身体などは、男性たちの賃金労働や家庭生活が可能になるために、無償で収奪され続けているのだ。人種や自然も同様である。

差別論と経済論は両立しうる。というよりも、両立させなければ無意味である。したがって、「文化的差異か経済的再分配か」「差別論か労働論か」等々の二元論的な対立もまた、偽りの問題にすぎないだろう。私たちは<複合差別論>と同時に<複合階級論>を問わねばならないのである。その意味では、あの「1%vs99%」というスローガンにも変更が加えられねばならないだろう。「99%」の内部には、階級論的な非対称性や収奪の問題がひそんでいるのだから。

グローバリゼーションそのものは人類の文明と科学技術の進歩が生み出したものであり、善でも悪でもなく、私たちにとっての生存環境そのものであり、自然そのものであると言える(人新世/資本新世)。しかし、グローバリゼーションそのものの流れと、それを利用して世界中で搾取/収奪を推し進める現代の怪物的な資本主義の暴力性とは概念的に区別されるべきだろう。繰り返す。資本主義の運動はそれ自体が交差的/複合差別的な構造をあらかじめ組み込んでいるのであり、市場経済での賃金労働を通した<搾取>とそれ以前の<収奪>(本源的蓄積)とは区別されるべきなのだ(人種資本主義、ジェンダー階級論、肉食資本主義など)。

私たちは今やあらためて、資本主義的なものをほとんど――ナオミ・クラインの「災害便乗型資本主義」論をさらに延長させるとすれば――災害的な破壊性を持つものとして理解しつつある。地球規模の気候危機をすら巻き起こしている人新世/資本新世的な資本主義の災害性の中で、私たちは、終わりの見えない不安定性や剥奪感に苦しめられ、心身の健康を病んで抑鬱的になり、バーンアウトしていく。それらの病や傷は、あたかも災害や災厄による複雑性PTSDのようである。

現代的なグローバリゼーションの力を利用しつつ権力と資産の超格差化を拡大再生産しているもの――それをここでは<災害資本主義>(ポスト新自由主義、交差的資本主義)と呼んでおきたい。「ぞっとするような=ホラーな」(M・フィッシャー)理不尽な恐ろしさを備えた資本主義は、それ自体がほとんど災害的に思えるからだ。ここでは、「経済を優先すべきか環境を優先すべきか」というのも、また偽物の問いである。私たちは経済指標と環境指標を組み合わせて、気候変動と格差問題に同時的に向き合わねばならない。不平等対策なくしては持続的発展もまたありえない。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」という有名な言葉に捻りを加えるなら、私たちは「気候危機による地球の終わりより、資本主義の終わりを想像するほうがたやすい」のではないか。

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最後に、もう一段階だけ、議論を進めて終わりにしよう。

私たちは、自分たちが属する東アジアの現実から出発するようなトランスナショナルな社会主義を今や必要としている。

最富裕層・最権力層への資産集中にどう切り込んで、それを社会主義的な公正な分配に繋げていくか――そのためには、ピケティが言うように、超富裕層へのグローバルな徴税と国際的再分配が肝要になってくるだろう。今や多くの経済学者たちも具体的に思案しているように、インターナショナルなベーシックインカムやベーシックキャピタル、あるいは、超富裕層の資産保有に限界を設けるリミタリアニズムというアイディアなども重要かもしれない。

それは経済的再分配の次元だけに還元することはできない。複合差別的な社会構造を真に民主的で公正な多元主義へと転換していかねばならない。しかし、一足飛びに「インターナショナリティ」へと進むのではなく、私たちは、<東アジア>という現実と歴史性から物事を思考しなければならない。いいかえれば、東アジア的な交通空間に立脚しながら、複合的な反差別論と反資本主義論を根源的に交差させていかねばならないのである。

たとえば日本語環境にいる私たちが、クォンキム・ヒョンヨン編著『被害と加害のフェミニズム』や林志弦『犠牲者意識ナショナリズム――国境を超える「記憶」の戦争』から与えられた認識上の恩恵には格別に大きいものがある。

林によれば、東アジアの国際政治は「戦いながら互いを正当化し、強めていく敵対的な共犯関係」の中にある。たとえば日本の良心的な左派は、「植民地化した加害側/植民地にされた被害側」という歴史的な非対称性を根拠に、韓国の民族主義を擁護し、日本の民族主義を反省してきた。それは良心的知識人の善意だったのかもしれない。「しかし、東アジアというトランスナショナルな記憶空間における彼らのナショナルな批判は反作用として、朝鮮半島の民族主義を正当化するのだ。そうして強化された韓国の民族主義が敵対的共犯関係の回路を経て、結果的に日本の民族主義を強めるという点を指摘したいのである」。こうした状況は今や世界各地で見られる。多くの国の人々が直面しているのは「犠牲者でありながら加害者でもあったという複合的な現実」である。

もちろんこれはたんなる歴史相対主義ではない。加害と被害の非対称性を消し去ることでもない。重要なのは、そうではなく、自分たちの中の痛みや困難を認めることによって、加害性をはっきりと認識するような、交差的な主体性を形成することだろう。自分の中で加害と被害が複合化し交差している、というねじれを受け入れること。それは極めて困難であり、人間にはほとんど不可能なことなのかもしれない――そして記憶をめぐる政治が人間の感情や情動に深く関わる以上、理詰めの正しさだけでは足りないのであり、私たちは「情動論的転回」以降のアプローチを必須とするだろう。

真に困難なのは、交差性という理念をたんなる記号として消費することではなく、交差性を単独者として受肉することであり、その血肉化の具体的過程においてそれを思想化し、理論化することである。トランスナショナルな犠牲者意識の時代、複合差別的な現実の時代の中では、誰の中にも感情的な葛藤が生じるはずだ。たとえば、障害者に対する能力主義的/健常者主義的な差別には敏感だが、ジェンダー問題については「男の被害者意識」を抱えている、そして移民・難民に対してはあまり関心を持てない、そうした諸要素が矛盾し葛藤してしまう、というようなケースである。

すなわち「われわれ=日本人」が必要としていることは、加害や差別の経験を相対化することではなく、犠牲者意識の罠から脱却するためにも、複雑なものを複雑なままに思考し続け、自分たちの傷や苦痛を消さないままに他者責任にコミットする、という意味での「歴史化」の企てなのではないか。しかしそのためにこそ、トランスナショナルな他者との連帯が必要であり、歴史の中で非対称的な関係性に置かれた他者との(緊張関係や敵対性を消すことのない)対話関係が重要なのだ。そうした内的葛藤を抑圧してはならない。社会運動が積み重ねてきた理論や理想を記号的に消費してはならない。

たとえば、日本列島民としての「私たち」は、自分たちの内輪の力だけでは、天皇制(天皇主権)というシステムを批判的に変えていくことすらできないだろう。そもそも、今や国際的に明らかになっているのは、政教分離という近代国家の原理が根本的に失調していることだ。ここ数年で、日本の保守政党と宗教団体(カルト宗教団体を含む)の癒着が可視化されてきた。もちろん、それは日本の政治だけに固有の現象ではない。しかし、日本国内にいると、日本の政治神学的な状況は致命的に救いがたいように感じられる。

マックス・ウェーバー的な意味での宗教の世俗化ではなく、カール・シュミット的な意味での宗教の世俗化(すなわち政治神学の世俗的浸透)が問われねばならないだろう。たとえばジョルジョ・アガンベンは、シュミットの理論を批判的に継承して、統治には二重構造がある、と論じた(『王国と栄光』)。統治の二重構造とは、政治神学(神によって主権権力の超越性を基礎づけるもの)とオイコノミア神学(神ではなく内在的秩序=家、経営、経済の秩序によって構想されるもの)という二重性である。

これらの議論を東アジアの文脈に翻訳して、接木してみよう。私たちは<家父長制神学>の問題に政治的に取り組まねばならない。日本の批評家、大杉重男は、<東アジア的専制体制>に対する根底的な批判こそが肝要であり、そのためには<東アジア同時革命>が必要になる、と論じている(『<日本人>の条件』)。しかし、現代において<東アジア同時革命>とは何を意味するのか。それはこれから対話的=交通的に考えられるべき主題であるだろう。

すなわち私たちは、家父長制的に世俗化された現代的な政治神学――依然として、日本国民たちは「強い日本」に憧れ、権威主義的主体や帝国主義的宗主国をレトロトピア的に夢見ている――を超えて、いわば東アジア的な<解放神学>へと進んでいかねばならないのだろう。私たちは交差的葛藤を抑圧することなく、(複雑性トラウマならぬ)複合的感情を抱えたまま〈主体性〉(フェリックス・ガタリ)を作り出していかねばならない。そのためには、一国主義的なナショナリズムでは足りないのだ。被害者意識のポリティクスにとどまるわけにもいかない。「われわれ=日本人」は、今こそ、トランスナショナルで持続可能な連帯と対話を必要としており、自分たちのあり方を根源的に批判してくれる敵対的他者との友愛を必要としている。

   *

私は本誌編集委員の一人として、今回の本誌の韓国語翻訳が、未来の東アジア的な友愛のためのささやかな力になりうることを、今は強く願っている。


二〇二六年二月三日

「対抗言論」編集委員、杉田俊介

室井光広『エセ物語』刊行クラウドファンディングを実施しました

現実と虚構を往還しながら日本列島語の根源に迫り、言葉を通じた人類の相互理解可能性への悪戦苦闘という対抗的文学のイデアを具現する、室井光広氏の未完の遺作『エセ物語』。この大著を刊行するためクラウドファンディングを実施し、83人の方から総額904,000円のご寄付をいただきました。本当にありがとうございました! なお、同著は法政大学出版局から本年9月に刊行予定です。

camp-fire.jp

www.h-up.com

 

イベント「日本・韓国の複合差別と対抗運動」

【韓国書籍専門書店チェッコリ】【会場+オンライン】

日韓の識者が語り合う「日本・韓国の複合差別と対抗運動」

杉田俊介(批評家、『対抗言論』編集委員)、

慶喜聖公会大学校東アジア研究所副教授)

2023年7月28日(金)19:00~20:00

 

(主なテーマ)

・韓国日本学会への参加について

・日韓の男性ジェンダー問題(「弱者男性」と「ハンナム 한남」が持つ被害者意識、「キモいおじさん」と「コンデ 꼰대」のマウント意識)

・「自分の中の日本(人)中心主義」とそこから派生するものをアンラーン(unlearn、学び捨て)する

・ラディカルデモクラシーから多元主義的デモクラシーへの転換

・複合差別の時代に対抗するための日韓連帯を構築する

 

韓国日本学会の国際学術大会に参加しました

 小誌編集委員杉田俊介が、韓国日本学会の国際学術大会<反嫌悪の実践的連帯>(2023年2月11日・淑明女子大学校)に、現地で発表者として参加し、「交差的な対抗運動のために ー日本人男性とアパシーの問題」について発表を行いました。下記は「中央日報」2月14日号に掲載された記事の翻訳です。(訳:櫻井信栄 翻訳に際して当日の配付資料を参照しました。韓国語の「嫌悪 혐오」は英語「hate」の訳語です。)


【韓国日本学会、「反嫌悪の実践的連帯」国際学術大会開催】

 日本社会において社会的少数者に対する差別と排除は既に昔から存在してきたが、2010年代以後現れている嫌悪は民族、人種、ジェンダーなど既存の現象だけでなく、障害、疾病、老人など社会的弱者なども複雑に交差しながら噴出しているという点で新しい様相を見せている。
 このような複合的嫌悪の現実に対応するため学問的、社会的接近もまた従来の個別研究領域を越えた横断的思考が要請されている。また気候変化と汚染物質、スーパーウイルスの拡散と結びついた嫌悪は「人間」の他者に対する根本的な視線を問うという点で動物や非人間に対する思考とも接ぎ木されて省察されなけれなばならない。
 これに韓国日本学会は近来日本社会の新しい動向として浮上した嫌悪現象を学術的に議題化し、これに共同で対応するための横断的学術共同体を構築するため、嫌悪現象の原因と展開様相を診断し実践的対応を論議するための国際学術会議を用意した。
 今回の学術大会は嫌悪時代の社会的需要に応じた日本研究を構築し新しい韓日関係を模索するための趣旨から「反嫌悪の実践的連帯」が主題だ。
 基調講演として中沢けい法政大教授が『日本のレイシズム ー経験に即して』を発表し、企画発表として李漢正祥明大教授が『「在日朝鮮人」に対する嫌悪と差別』、杉田俊介評論家が『交差的な対抗運動のために ー日本人男性とアパシーの問題』、金志映淑明女子大教授が『ヘイトを越えて、連帯と歓待の翻訳地帯へ ー日本における「K-文学」の受容をめぐって』、村上克尚東京大教授が『ヘイトに文学的想像力で抗う ー星野智幸「植物忌」を中心に』という主題で発表を進行した。
 学術大会において開かれた理事会を通じて第26代韓国日本学会会長に淑明女子大学校日本学科の李志炯教授が選出された。任期は2023年3月から2025年2月まで2年間だ。オン・オフラインのハイブリッド方式によって進行された学術大会では50件余りの発表が進行され250名余りが参席して盛況裡に開催された。

てんでんこ×川根本町×『対抗言論』ミニフェアを開催します

2023年1月20日(金)~29日(日)

バロンデッセ・アートギャラリー3階

(BOOKSHOP TRAVELLER隣/東京・下北沢)

本誌編集委員・川口好美が運営する「本とおもちゃ てんでんこ」と静岡県川根本町のフェアに『対抗言論』が参加いたします。

川根本町&「てんでんこ」の魅力がわかる展示&物販

川根本町の茶農家による川根茶の試飲会(土日に予定)

・『対抗言論』関連書籍の特価販売(『対抗言論』関連書籍をお買い上げ頂いた方、先着80名様に「川根ティーパックギフト」をプレゼント。また『練習生 「対抗言論」刊行記念特別号』をプレゼント)

・「てんでんこ」のおもちゃやボードゲームで遊ぼう(幼児~ご老人)

・そのほかゲリライベント

 

ミニフェア詳細

note.com

本とおもちゃ てんでんこ

tendenco6.webnode.jp

イベント「批評はいかにして暴力と差別に向き合うのか」

『対抗言論 vol.3』(法政大学出版局)刊行記念トークイベント

「批評はいかにして暴力と差別に向き合うのか」

矢野利裕×杉田俊介×西村紗知 司会・川口好美

★来場特典★
①『対抗言論』3号特価販売
②『練習生 「対抗言論」刊行記念特別号』贈呈(配信ご来場者含む)
田中さとみ 詩「almond paraiso」
櫻井信栄 詩「春は春」
杉田俊介 長篇エッセイ「共に学び続ける、やがて生まれはじめる死者として――ケイン樹里安氏を追悼する」
藤原侑貴 エッセイ「暗闇の中で」
③学生証提示で『対抗言論』1号または2号を贈呈

※来場参加チケット(税込1,500円)販売ページ

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 感染症と戦争の危機、蔓延する暴力、宗教とジェンダーの抑圧構造、主権者無視の政治……。社会と文化のますますの貧困化のなかで誰もが疲弊し、傷つき、無力感を強いられる世界。

 この時代の根本問題を撃ち、私たちの明日を祝福できるための言葉はいま、どこにあるのか?

 元首相銃撃事件論からハラスメント問題まで、批評と文学の対抗力を蘇らせる『対抗言論 vol.3』の刊行を機に、本誌編集委員・寄稿者たちが集い、静かに熱く語ります。

【登壇者】

矢野利裕(文芸批評・音楽批評)

杉田俊介(批評家)

西村紗知(音楽批評)※20時からゲスト登壇

川口好美(文芸批評)

【開催要項】

日程:1月20日(金)19時~(開場18時30分~)

会場:読書人隣り(千代田区神田神保町1-3-5冨山房ビル6階)

◎地下鉄神保町駅半蔵門線都営三田線新宿線)A7出口下車

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■注意事項

・ご入場時に受付でお名前をお申し出ください。

感染症対策のため会場では常時換気を行います。ご来場時はなるべく温度調整のしやすい格好でご来場ください。

・来場の際、アルコール消毒をお願いいたします。

・会場内では必ずマスクを着用ください。また会場内では極力発声を控えていただきますようお願いいたします。

・イベント開催中、ライブ配信用のカメラを観客席近くに設置します。イベント内で機材の調整など係のものが作業を行うこともありますが、予めご了承ください。

■オンライン配信参加ご希望の方は、以下URLよりチケットをご購入ください■
https://jinnet.dokushojin.com/products/event20230120_online
 

国際学術大会に参加しました

小誌編集委員杉田俊介が、淑明女子大学校人文学研究所の国際学術大会<ヘイトの拡散と対抗談論:相互交差的接近>(2022年12月16日~17日)に、オンライン登壇者として参加しました。『対抗言論』の活動に韓国の研究者から関心を持ってもらったことがきっかけになりました。当日の発表「2010年代の日本における複合差別状況と対抗言論の可能性」のレジュメを後ほど公開します。